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大阪地方裁判所 平成5年(ワ)4003号 判決

原告

甲野一郎

右訴訟代理人弁護士

池谷博行

被告

右代表者法務大臣

長尾立子

右訴訟代理人弁護士

井口博

右指定代理人

成田良造

外二名

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は原告に対し、金一〇〇〇万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行の宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  主文と同旨

2  担保を条件とする仮執行免脱の宣言

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  (原告)

原告は、平成四年五月七日覚せい剤取締法違反の罪で逮捕され、その後同年六月二二日から平成五年四月二七日まで、大阪拘置所に勾留されていたものである。

2  (C型肝炎ウイルスの感染)

(一)(1) 訴外乙山一男(以下「乙山」という。)は、平成四年一〇月ころ刑事被告人として京都拘置所から大阪拘置所に移監されてきた者で、約二か月間、原告と同房となった。

(2) 乙山は移監当時、既にC型肝炎ウイルス(以下「HCV」という。)の保有者であった。

(二) 原告は、乙山と同房中、共同浴場で入浴を共にし髭剃り(T字型二枚刃)の刃を共用(乙山の使用した刃を原告が使用)したため、HCVに感染した(原告のほかに同房の二人も感染した)。

3  (被告の過失)

(一) 京都拘置所では平成四年一〇月ころHCVの大量感染が問題になっていたから、大阪拘置所長は乙山がHCVの保有者であって、特に注意しないと他の収容者にHCVが感染することを予見できたはずである(しかるに乙山の移監に際し血液検査さえ実施していない)。

(二) 入浴時に髭剃りの刃を共用することはHCVに感染し易いから、大阪拘置所長には、乙山との髭剃りの刃の共用を禁止し、個別の刃を与えるなどして原告への感染を未然に防止すべき注意義務があるのに、同所長はこれを怠った。

(三) 原告がHCVに感染したのは、大阪拘置所長の右過失によるものである。

4  (損害)

原告はHCVに感染し、将来肝硬変や肝癌になることもあるため、日夜、不安や恐怖と闘わざるを得ず、この精神的苦痛を慰謝するためには金一〇〇〇万円が相当である。

よって、原告は被告に対し、国家賠償法一条一項に基づく損害賠償として金一〇〇〇万円及びこれに対する違法行為の後である訴状送達の日の翌日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1は認める。

2(一)  同2の(一)の(1)、(2)は認める。

但し、乙山が大阪拘置所に移監されたのは平成四年一一月一七日であり、原告との同房期間は同月二七日から同年一二月一七日までの二一日間である。

(二)  同2の(二)のうち、原告が乙山と同房中、入浴を共にしていたことは認めるが、その余は否認する。

原告は、大阪拘置所に在監中(平成五年一月一三日)抗体検査を受け、HCV保有者であることが判明した。しかし、原告は覚せい剤の常用者であり、大阪拘置所に勾留される以前(平成四年六月二二日以前)からHCVの保有者であったものである(同房の二名も同様である)。

なお、大阪拘置所では、収容者の入浴に立ち会う職員が収容者の各自に剃刀を与えていたし、警備上及び保健衛生の見地から収容者が風呂場で剃刀を共用しないよう注意して監視していた。

3  同3(一)ないし(三)は否認ないし争う。

(一) 当時の法務省矯正局長の通達によれば、血液検査は本人の申出があるか、施設側が必要と認め、かつ本人の同意ある場合に実施すれば足りることになっており、乙山の場合は本人からの申出がなく、また身体検査の結果からは感染症を疑わせる自覚症状、他覚症状がなかったため、必要性を認めなかったものである。

(二) 大阪拘置所長は、当時の通達に従い、入浴時の立会職員をして消毒済みの剃刀を収容者各自に一本ずつ手渡して使用させ、使用後は回収しブラシを使用して流水で洗い、HCVに効果のある消毒液に三〇分間以上浸す処理をした後、次の者に使用させていた。

大阪拘置所長は日頃から収容者間で剃刀を共用することがないよう担当職員に注意を促しており、担当職員は所長の指示に従い収容者への監視を徹底していた。

(三) 仮に原告と乙山の間で剃刀を共用したとしても、このような経路による感染の可能性は著しく低い。

かえって原告は覚せい剤の常用者であり、注射器の「回し打ち」によるHCV感染率は極めて高率であるから、原告は剃刀の共用ではなく、覚せい剤常用時の注射器の共用によりHCVに感染したのである。

4  同4は不知ないし争う。

第三  証拠

本件記録中の証拠関係目録のとおり。

理由

一  請求原因1(原告)の事実は当事者間に争いがない。

二1  同2(C型肝炎ウイルスの感染)の(一)の(1)、(2)の各事実は、乙山が大阪拘置所で原告と同房となった時期を除き当事者間に争いがなく、その時期が平成四年一一月二七日から同年一二月一七日まで(二一日間)であったことは弁論の全趣旨から明らかである。

右事実によると、原告はHCVの保有者である乙山と、大阪拘置所の同じ監房でしばらく起居を共にしたことが認められる。

2(一)  同2の(二)のうち、原告と乙山が同房にいる間、拘置所の共同浴場で一緒に入浴していた事実は当事者間に争いがなく、証拠(原告本人)と弁論の全趣旨によれば、その回数は六、七回であったことが認められる。

また、弁論の全趣旨によると、原告は大阪拘置所在監中に受けた抗体検査で、HCVに感染していることが判明した事実が認められる。

(二)  入浴時の髭剃りの共用について

原告本人はその主張に沿う供述をするところ、証拠(乙二、検乙一ないし四、井元証人)によれば、当時の大阪拘置所では、主にエイズの感染防止のため、入浴時の髭剃り(一般に市販されているT字型の固定式二枚刃)は同一のものを複数で共用させないことになっていたが、替え刃の交換がひと月に一度程度で、その間一本をおよそ二四、五回は使用していたことが認められるから、その使用頻度に照らすと、髭剃りの中には汚損したり全く切れなくなったものもかなり含まれていたものと推認するに難くなく、浴場で収容者同士が監視の目を盗んで髭剃りを交換したり、誰かが使用した髭剃りを後で使わせてもらうようなことも全くなくはなかったとみるのが相当である(右認定に反する乙一〇と井元証言は単に建て前を述べるにとどまり、にわかに採用することができない)。

そうすると、原告本人の右供述の信用性を一概に否定することはできないところ、医学上の知見(甲七、乙四、五)では、HCVは血液を通して感染し、HCV保有者が使用した髭剃りをよく消毒しないまま使用するとHCVに感染することもあり得ることが指摘されているから、原告がHCVに感染したことと、乙山(HCVの保有者)が使用した髭剃りを原告が借りて使用したこととが無関係であると断定することはとうていできないといわねばならない。

(三)  原告の感染経路について

しかし一方、証拠(乙六、一一の1ないし5)によれば、覚せい剤の常用者はHCVの感染率が高く、常用期間が長い程かなりの高率となること(五年以上の常用者ではほぼ一〇〇パーセントとする資料もある)、その原因として専門家は複数で覚せい剤を使用する際の注射器(針)の「回し打ち」を指摘していることが認められるところ、証拠(乙七、八の各1、2、原告本人)及び弁論の全趣旨によると、原告は一〇代のころから覚せい剤を常用し、何度も検挙されては刑事裁判を受けており、もとより数名の仲間と一緒に覚せい剤を注射したことも幾度となくあった事実が認められ、これらの事実によれば、原告のHCVの感染は覚せい剤の常用による疑いが濃く、はたして大阪拘置所に入所後、同房となった乙山から感染したといえるかどうかは疑問であるといわなければならない(原告本人は仲間との「回し打ち」を否定する供述をするが、にわかに信用することができない。なお、同房の他の二名の感染経路についても同様である。)。

この点について、原告本人は乙山と同房となったあと急性肝炎の症状が出たが、これは文献(甲七)による感染後の発症時期と符合する旨供述し、乙一四の2によると、大阪拘置所医務部の記録には原告が訴えた症状として、平成五年二月一八日の欄に「一月二八日夜間覚醒時、目まい、吐き気があり、その後はなかったが、二月一二日から再度目まいがした。」と記されていることが認められる。しかし、仮に原告に当時そのような症状があったとしても、それだけではC型肝炎の初発症状と見るには十分でなく(乙四、五参照)、HCV保有者である乙山が使用した髭剃りを原告が借りて使用したという前記認定の事実のほかに、これらの事実を総合するだけでは、原告のHCV感染の時期が大阪拘置所に入所した後であると認定するのに未だ不十分であるといわねばならない。

三  以上によれば、原告の本訴請求はその余の点につき判断するまでもなく理由がないから棄却し、民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官白井博文 裁判官坂上文一 裁判官入江健は転勤につき、署名押印できない。裁判長裁判官白井博文)

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